第425回 コミュニケーションがホスピタリティの第一歩

 先日のこんな話があった。

 お客様が部屋に髭剃りを洗面所のコンセントに指したままお忘れになった。

 さて、どのように対応したらいいのか。

 ここでキーポイントになるのは『連絡をする・連絡をしない』という問題である。

 いずれが正解であろうかは、様々な見解があるが、小生は『連絡をしない』が正解であると考えている。

 確かに、困っているお客様に対し、予約の際に連絡先を頂いている以上、連絡を差し上げた方が親切で、丁寧ではないかという考え方もあるのは事実だし、その通りだと思う。

 しかし、お客様が宿泊している理由までは知らないため、それが原因で万が一にもトラブルになることはないだろうか。

 数少ない限られたことなのかもしれないが、連絡することでご迷惑をおかけするかもしれないのであれば、私は連絡をホテル・旅館側から差し上げることはもちろん個々のケースによって様々なあるにせよ、するべきではないというマニュアルが正解なのだと考えている。

 という話をしていたら、質問があり、携帯電話の忘れ物の話になった。

 同様に携帯電話をお忘れになったお客様がいて、その電話が鳴っている。これは電話にでるべきかでないべきかと。

 同様に、電話の外線がかかってきた場合などもある。

 一つ一つの出来事によってマニュアルを作ることは大切なことだが、大変な時間を要する。

 大切なことはするべきかやめるべきかの判断基準を明確にすることである。

 さて、ここで思うことは、判断基準とはなんなのかという原点である。

 ホテルではプライベート空間を演出することは非常に重要とされており、接客担当がお客様の部屋を訪問することは呼ばれない限りはない。

 しかし、旅館では接客係が部屋にお通ししたり、部屋に布団を敷くために中に入ったりと、様々な場面で空間に立ち入ることがある。

 またお客様と会話し、その中で旅行目的など聞く場面もある。そこにホテルと旅館の大きな違いがあるのだと考えている。

 始めに提起した問題の判断基準であるが、お客様の旅行する理由はさまざまである。

 そのために、万が一ご迷惑をかけてしまう場面が考えられるのであればそれは避けなければいけない。

 そして、マニュアルでは、全員が同じことをするべきなので、そうあるべきである。

 しかし、お客様と直に会話し、コミュニケーションが取れた上であれば、私はその限りだとは思わない。

 一定のサービス水準を保つためには、最低限のことをカヴァしたマニュアルが必要である。

 しかし、それを超えたところに、本当の意味でのホスピタリティがあり、親切やおもてなしがあるのではないかと感じた。

 近所付き合いや職場での会話が減っている今、コミュニケーションを取ることができれば、マニュアル以上の、いわゆるホスピタリティが提供できるのではないだろうか。

第424回 経営者の資質を考える

 温泉旅館の親父というと語弊があるかもしれないが、その一面も備えつつも、当然のことながら、温泉旅館を経営する経営者である。

 なぜこのような話をするのかと言えば、経営者という立場を忘れがちなのではないかと思うことが最近多い。

 そこで、経営者として大切なことを確認していきたい。

 第一に考えたいことは、経営者は常識人たれということである。

 かつて評論家の竹村健一氏が雑誌やマスコミでよく使う言葉に、「日本の常識・世界の非常識」というのがある。

 一々「ごもっとも」と、テレビに向かって肯いている小市民であるが、この「常識」という言葉、今、実に蔑ろにされている感が強い。

 竹村氏の言う「常識」とは意味合いが若干異なるが、常識の中に、「礼儀」「作法」「慣習」「しきたり」「教養」「マナー」…こんな言葉を含めるとすれば、今日の日本の中で、正に「常識」なるものに大いなる異変が起こりつつある。

 つまり嘗てあったはずの常識なるものが全く通じないし、当たり前が当たり前でなくなっている。

 しかもこの傾向は、年齢の老若関係なく、また学歴、収入の高低、地域の別なく、全日本的に蔓延しているようで、社会学者の如く、時代変化の一現象というべきか、善悪の判定は別として、何とも摩訶不思議な国になりつつある。

 旅館や料亭、もちろん家庭にも「日本間」がある。

 日本間には必ず上座・下座が決まっている。

 もっと言えば日本間に限らず、会議室や応接室にも、自動車にも、エレベーターの中にも上座・下座の区別があるについては、これぞ究極の「日本の常識」である。

 そんなことお構いなしに、遅れて入ってきた人が一言の礼なく、どかどかと上座に鎮座するに至っては、開いた口が塞(ふさ)がらない。

 セミナーや会議、話す方も聞く方も、もちろん真剣勝負。

 そんな時必ずと言っていいかもしれないが、携帯電話の呼び出し音。

 あれほど何回も注意したにも拘らず、「もしもし」なんて、電話に出る受講者がいる。

 時代がどう変わろうと、やはり「嘆かわしい」と思っている。

 「常識」という言葉は、身上の人に対する敬意、年長者への思いやり、周りの人への配慮、環境や社会に対する心配りから成り立っている。

 これが美しい日本の風土や歴史に支えられ、日本人としての「プライドと教養の証」として、大きな誇りだったはずである。

 教養のない者が、人の上に立てない歴史的証明があるように、経営者たる者、誰に対しても恥ずかしくない常識を身に着けるべきであり、常識なしでは、世界に向けての貢献など、出来る筈がない。

 まずは、日本人としての誇りあるアイデンティティを、常識を再考することで、見つめ直してみたいものである。

第423回 お接待から考える日本のインバウンド

 四国には、四国八十八箇所の霊場を巡るいわゆるお遍路さんという風習がある。

 これは、江戸時代のころより庶民の間で流行した巡礼の一つで、かつて四国で修業した弘法大師の徳にあやかるようにということで、現在では、徒歩はもちろん、自転車や車を使うといった具合に形こそ多少変わったのかもしれないが、今でも盛んに行われている巡礼である。

 このお遍路さんが今でも盛んに行われている理由はいくつか考えられるが、その中の一つに、経済的負担が少なくても行えるということがある。

 それは四国の人々の間で今も根付いている『お接待』という習慣である。

 四国でお遍路さんに行う『お接待』とは、例えば、遍路の途中に見知らぬ人より「お茶でもいかがですか」と声を掛けられたり、「接待所」と呼ばれる無料の休憩所があったり、中には、宿泊をさせてくれる家や、現金をくれる人もいるとのことである。

 これは、お接待自体に、代参の意味があり、徳の高い行為とされておるからだとされているが、もちろん、この好意の裏には、四国の人々奉仕やおもてなしの心と、苦労があったと思われる。

 江戸時代に始まったお遍路という巡礼が、平成の今の世の中でも盛んに行われている理由の一つに、四国の人々の中に根付くお遍路さんをおもてなすあたたかい心が可能にしているのだと思われる。

 さて、話は変わるが先日2020年の夏季オリンピックが東京で開催されるという嬉しいニュースが飛び込んできた。

 これをきっかけに多くの外国人が東京近郊、ひいては日本に訪れることとなる。

 これは、インバウンドの観点から言えば大きなチャンスである。

 これをきっかけに日本の「おもてなし」を諸外国の人々に体験してもらういいきっかけである。

 そのために、私は旅館やホテル産業界だけではなく、7年後といえば今の中学生も大人になる年である、そのためそれぞれの地域で、子どもたちにまでしっかりと「おもてなし」の気持ちを教えることが大切であると考える。

 その中で、私は四国の人々の中に今でも根付いている『お接待』の精神、諸外国の人々を日本全体で『お接待』するということが日本を好きになってくれる外国人の方を増やし、インバウンドの大きな発展に寄与できるのではないかと思っている。

 東京オリンピック開催、56年ぶりのこの大きなイベントを観光業界にも明るい光を照らすきっかけにしていきたい。

第422回 番外編 旅館料理への苦言

 日本は豊かになり、物流が発達しどこにいても新鮮なものが手に入るようになってきた。

 その影響か、山の中の温泉地の旅館料理も昔ながらの鮮魚のお造りはもちろん、アワビやカニといった高級食材でさえ味わうことができる。

 それは嬉しいこととも思えるが、私はここに落とし穴があるように思われる。

 この夏の国内レジャーはここ数年の中で比較的好調と言え、全体的には良い話をたくさん聞くことがある。

 そして、夏の主力ターゲットである家族層に対して、上記のような特別高級な食材を提供する食事メニューが概ね受けていることも実際である。

 しかし、それが日本の伝統的な食事と、文化と、旅館ということができるのであろうか。

 今回はあえて苦言と主観そして対策を述べていきたい。

 レジャーの中で旅館への宿泊を選ぶ消費者心理の中には、旅館に対する様々な期待が存在しているのは言うまでもなく、その中でも施設や料理といったものは大きなウェイトを占めている。

 そして、多くの旅館は和食の伝統である割烹スタイルを取っているところが多いのが現状である。

 しかし、大事なことを見逃していると思われるものが多い。

 それは食事のストーリー性であると私は考えている。

 確かに物流の進歩や宿泊客の趣向の変化により、食事の形態も様々な形で変化するのは当然のことである。

 しかし、言い換えれば、どこに行っても同じような料理内容になってしまいがちであるということである。

 確かに物流が進歩したとはいえ、海の物は海のそばで食べた方がおいしいに決まっている。

 にもかかわらず、山の中に来てわざわざ海の物を料理に出すのでは、土地ならではの『風土』が失われている。

 また、季節感という点でも同様である。

 多くの旅館が食事に占める仕入の問題、いわゆる原価率の問題に苦慮していると思われる。

 大前提として当たり前の話になるが、いいものを安く仕入れ提供するということが一番なのである。

 そして、『良いものを安く』というのは、旬の物という形で和食では表現されている。

 作物や魚には、一番おいしく食べられる時期、収穫できる時期というのが決まっており、その時期のものが一番おいしく、市場に多く出回るため価格も安価なのである。

 当たり前のことのようだが、進歩した日本の現在では価格は違えど一年を通じて手に入るものが多いため見失われがちである。

 不易流行という言葉がある。

 流行があるが、それとは別に変らずにいなければいけないものがあり、それを守ってこそ貫いてこその文化であり、長く反映するためのポイントなのである。

 もう一度、自分の旅館の料理を見直し、本当にこれが正解か考えてほしい。

 流行は必ず次の流行によって変化する。

 それは、いつの世も繰り返しなのだからと私は思う。