第657回 北野武流「作法」

お笑いタレント、司会者、作家等々多方面で活躍されているビートたけし。

彼こそはコンプレックスの塊だと、小生、密かに思い込んでいる。

コンプレックスとは劣等感という意味と、複合的(才能)という意味付けを無理やりしてみた。

陰(いん)のコンプレックスの代表が三島由紀夫だとすれば、

北野武は、明るすぎるコンプレックスの親分と言って良いかもしれない。

個人的に、三島の中には、小生の永遠のテーマみたいなものがあるが、

北野武は、あまり好きなキャラではなく、特に俳優、映画監督という肩書は「勘弁」である。

そうはいえ、溢れ出る才能だけは、客観的にも認めざるを得ない。

その北野武氏の「作法」についての話が、今ネットで評判だ。今回はその一部を、ご紹介する。

 

…具体的な細かい作法をいくら知っていても、 

本当の意味で、他人を気遣う気持ちがなければ、何の意味もない。 

その反対に、作法なんかよく知らなくても、

ちゃんと人を気遣うことができれば、大きく作法を外すことはない。 

 

駄目な奴は、この気遣いがまったくできていない。

人の気持ちを考えて行動するという発想を、最初から持っていないのだ。

 

他人への気遣いで大切なのは、話を聞いてやることだ。 

人間は歳を取ると、どういうわけかこれが苦手になるらしい。 

むしろ、自分の自慢話ばかりしたがるようになる。 

だけど、自慢話は一文の得にもならないし、その場の雰囲気を悪くする。 

それよりも、相手の話を聞く方がずっといい。 

 

料理人に会ったら料理のこと、運転手に会ったらクルマのこと、

坊さんに会ったらあの世のことでも何でも、

知ったかぶりせずに、素直な気持ちで聞いてみたらいい。

自慢話なんかしているより、ずっと世界が広がるし、何より場が楽しくなる。  

 

例え知っていたとしても、一応ちゃんと聞くのだ。 

そうすれば、専門家というものは、きっとこちらの知らないことまで話してくれる。

井戸を掘っても、誘い水をしないと水が湧いてこないように、

人との会話にも誘い水が必要なのだ。

 

 

これはいい話だ。いくら「下品さ」をカモフラージュしても、細心のデリカシーの持ち主である北野武、本質を説く思いが伝わってくる、素晴らしい話と出会うことができた。

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2015年11月29日IKG(~飯島経営グループ)
カテゴリー:飯島賢二のコラム


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